命によって生かされている。

中村久子さんが遺した言葉。
人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。
(※以前テレビで紹介されていた時のメモ書きから転機したので、若干ニュアンスが違うかもしれません。)

中村さんは3歳の時に凍傷が原因で病気になり、両手両脚を切断し家族との死別、親からの虐待、時代背景もあってか見世物小屋へ身売り…後に結婚、子育て…障がいと共に自律した生涯を過された人です。
そんな中村さんの言葉が今も響きます。

人の命がこの世界に誕生した時に、その存在に対して歓び、尊くて、ただただ感謝の気持ちが湧いているものだと思います。
ただ、その歓びは長くは続かず、乳幼児健診や、その後のあらゆる基準と比較する機会や誰かとの比較、常に比較の中で自分は◯◯なんだ…という現実に遭遇し、成長過程での体験という変遷を経て今の自分に至っていると思います。

比較で何を観るか…
何かを羨望し自分には足りないと思うのか…
自分の環境を所有し続けようと執着死守しようとするのか…
自分という存在を受け容れ比較ではない自分を生きるのか…

命は共通している。

比較も悪いことではないと思います。ただ、自分や誰かを卑下したり差を造って分ける必要はないと思うんです。そう考えると比較という差は、ただの「違い」でしかないと思います。

中村さんの言葉、自分で生きているのではない、生かされているということ…
自分という存在は唯一無二です。変わりはいません。自分の命と共に成すことがある。無いんじゃなく自分だから出来ることが在るんですね。だから絶望はない!そんな力強い言葉を遺してくれていると思うんです。

自分が置かれた境遇と現実は過酷です。
だから閉じ籠もることもあると思います。
過酷で辛く苦悩するからこそ、その想いは分かち合えるはずなんです。
だって、皆何かしらの苦悩があるのだから…それは同じなんです。

何かがあったときに、反省する必要性はなく内省したらいいと思うんです。自分を変えようとするよりも、分かち合えないと思っているその意識の前提を、分かち合えるに信頼を置くことだと思います。
皆同じだから我慢するのではなく、同じだから分かち合おうとすることが出来る。

あれ、自分ではそう思い込んでいたけど、実は違うんじゃないのか…って。

この生かされている命があるのだから、自分の命と共に自分を生きて活きていける。

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