局所最適よりも全体を眺める
何かを正しいとする限り、必ず否定も生まれます。
問題を見た時に問題だけを見て是正することは、局所最適ではあるけれど、その一方で保っていたものを閉じる結果にもなる場合があります。つまり、問題解決をしているようで問題を生む構造になっているということですね。
問題がなぜ問題として浮かび上がるのか…
例えば、何かの制度適用の面では基準を満たすものが正しい、それ以外は正しいものではない。になりますよね。
この考えが定着すると正しくないものは悪いもの…になりやすいのだと思います。
そもそも制度が生まれた背景には何があったのか…
元々だったら人と人の関わりや繋がりで満たされていたり、保たれていた生活はあったはず…けれど、それは100%にはとても届かない。だから、より良いものへとしていこうという願いから制度が生まれたのだと思います。その想いは今もありますよね。
ところが、適用に近づきすぎると”これは良いこれは悪い”の判断基準が物事の見え方に当てはめられていき、人の生命活動にある想いを否定することになっていきます。
今の社会で飛び交う否定批判の声は、自分でも気付いていない心からの願いの声なんですよね。
資格の有無、基準の有無、沢山の条件ありますが、そこだけだと全て取引きの世界を生きている状態です。現状ではそれも大切になっているのですが、それだけだと息苦しいですよね。なので、そこに”存在”ということを照らし合わせて観ることが大切なのだと思います。
人の想いが繋ぐ循環は、条件に依らずとも互いを支え合っていくことは出来るはずです。
だって災害があったとき、助け合ってるじゃないですか。そこに否定批判は出て来ないですよね。
でも、日常では人対人の関係性で対立してしまい、その結果、内的な災害となっている場合だって多々あるんです。
その状態って知らず知らずのうちに雰囲気を伝って周りへも伝播しますよね。
制度がなぜ生まれたのか…
根本にある目的や趣旨を慮ると、今の適用の仕方は振り分ける為の取引き的適用になっているのかもしれません。
そもそもですが、人それぞれ固有の特徴や特性を無条件に受け容れる土台があったとしたら、問題は起きないのかもしれない…と、思います。
人の願いに沿うこと。
自分の願いを伝え沿ってもらえること。
ただ…
それで自分は…家族は…
生きていけるのか…
生きていけないのではないか…
可能性と生存への恐れ…
条件は条件を生み続けます。
人は、ひとりで生きているのではないのだから、何かを決めようとするよりも、一旦静かに共感をしてみる。すると、多くのこと、ものが”在るもの”として可視化されていくと思います。
共感は、しなければならないものではありませんが、共感を向ける意識の土台がないと、手を繋ぐよりも払いのける関係性に意識が向く機会が増えるかもしれません。
結果的に自らが望まない選択や生き方に寄与することになっては、元も子もありませんよね。
条件は大切ではありますが、一人ひとりの、自身の在り方はもっと大切になるのだと思います。
それは、様々な出来事からも増々より現実化していくのだと感じました。
制度も条件も取引きも手段です。
目的は何の為か…
自分はどう在るか…
直ぐに決めつけるのではなく、内省して考えていくことが、それぞれの想いを満たしていくことに繋がると思います。