「知っている」と「理解する」の違い、本質をどこに置くか。

本物かそうじゃないかは関係ない。大体こうだ、が大事なんだ。

こんな言葉を耳にして、共感する人もいるかもしれません。日々、膨大な情報が流れ込む現代社会。すべての情報を深く掘り下げるのは難しく、「大体こういうことね」と概要だけを把握して、周りについていくことに価値が置かれているのかもしれません。

でも、本当にそれでいいのでしょうか?

「大体〇〇だよね」と言われたらどう感じる?

例えば、誰かに自分のことを「あなたって大体〇〇だよね」と言われたらどう感じますか?

「まあ、そういう一面もあるかな」と納得できることもあれば、「ちょっと違うんだけど…」とモヤモヤすることもあるし、「分かったつもりにならないで!」と、強く反発したくなることだってあるはずです。

私たちは、苦しみや痛みを経験するからこそ、他者を思いやることができます。同時に、その痛みを知っているからこそ、同じ苦しみを味合わせようと思ってしまうこともある。
物事には必ず、両極とその間が存在します。そして大切なのは、「大体」が、多くの微細なつながりの上に成り立っていることを知ることです。

「知っている」と「理解する」は別物

「大体こうだ」という言葉には、その物事の本質が含まれています。ただ、それだけでは表面的な理解に留まってしまいます。
ここに、「知っている」と「理解する」の大きな違いがあるのです。

例えば、「あそこに素敵な美術館があります」という情報を知っているだけでは、その美術館の魅力や価値は分かりません。中身を深く知ろうとせず、表面的な情報だけで話しを進めてしまうと、いつか話のつじつまが合わなくなってしまうかもしれません。

表面的な情報のやりとりを繰り返して、その数の多さだけを本質と捉えるのか。それとも、その情報一つひとつの内側に本質を見出そうとするのか。

今の社会においては、情報に触れる私たち一人ひとりにその姿勢が問われているのかもしれません。