【終わりを受け入れる】自分を引き受けるということ
「終わり」は、誰にも平等に訪れます。それは、この肉体の終わりかもしれないし、特定の期間や関係性の終わりかもしれません。
終わりを忌避する本能
私たちは本能的に、この「終わり」を忌避してしまいます。
「まだ先だ」「今じゃない」と、終わりを遠ざけ、抗い、あるいは過剰に備えようとします。終わりがあるという事実から目を背けることで、今を生きる力も弱めてしまうことがあるのかもしれません。
かといって、「どうせ終わりが来るなら」と自暴自棄になって好き放題に生きることも、どこか満たされない感覚が残ります。それは、今ここにある大切な何か、未来に託すべき希望を「無いこと」にしているように感じるからです。
「終わり」がもたらす力
むしろ、終わりがあるからこそ、より佳く生きようとする力が湧いてくるのではないでしょうか。
老いること、病むこと、そして活き活きと生きること。これらはすべて、時の流れの中で移り変わっていくもの、つまり終わりへ向かうプロセスの一部です。
天気を思い通りにできないのと同じように、どれだけ心を尽くし備えようとも、起こることは起こります。思うようにはならない現実。仏教では、これを「苦」としています。
「もう少しだけ」と抗い続ける自分
自分自身も、頭では終わりがあると分かっていながら、「もう少しだけ」「もう一歩だけ」と、抗い続けているのが正直なところです。
この「抗いたい」という本能の力は、それほどに強大です。
この強大な恐れを否定せず、それでもなお、今を生きるために周囲と共同体として手を繋ぐ実践は、まさに修行にも似た毎日かもしれません。
体験だけが語る真実
結局のところ、終わりを引き受けるとは、今この瞬間の自分自身を、良い面も、抗う弱さも含めてすべて引き受けるということなのかもしれません。
「終わりを受け入れる」というテーマは、頭で理解するのと、心と体で体験するのとでは大違いです。
だからこそ、体験なきものは伝えることは難しい。
言葉ではなく、自分自身の生き様こそが、この真実を静かに語る唯一の方法なのだと思います。