何者になんかなる必要はない。

どこまでも自分になる

思えば、小学校低学年の健康診断で心臓中隔欠損と言われ「あ、僕は長くは生きられないんだ」と思った…
お先真っ暗で放心状態の中で、何故か両親と祖父母にごめんね…という気持ちが湧いたことを覚えている。
すっかり忘れていたけど、大晦日に思い出しました。

小学校後半や中学時代も人より体力が無いと感じていたのは、左心室の新鮮な血液に右心室の血液が混ざった状態だったからなのかもしれない。
自分と周りの人との発想や感覚の違い、常識もないし身体的にも中隔まで欠損している…一体どうやって社会生活をしていったらいいのだろうか…と不安に苛まれていました。
自分には無い、足りない…、満たされない…
だから自分を無くして周りに調律を合わせた洞調律で擬態することが生きる術だった。
自分には無くて周りには在るという世界だったから…

心臓の中隔欠損は身体の成長過程でおそらく治癒したと思うけれど、他の部分は相変わらずの生き方だった。
そんな、自分を生きてない自分と不調和な生き方は体に負荷をかけるんですよね。
蓄積された自分自身の声が自分を痛めつけることで自分に気付かせようとしてくれた結果、体は精神をダウンさせました。

今思うのは、自分を変えることは出来ないということです。自分はどこまで行っても自分なんだって。
だから自分と調和した自己になっていく。何者になるのではなく、どこまでも自分になっていくことが自分に適った活き方なのだと思います。

それがWell-beingな生き方の世界観です。