全ての存在者へ

本文僕には教養がない…という認識があります。
中学生時代のテストでは、5教科の合計点が160とか170点で行ける高校は無いと担任から言われていました。

入学した高校は地域で偏見の目で見られるような個性豊かなヤンチャな学生が集まる学校でした。
同級生は毎年3〜4人退学して減ってしまうクラスでしたが、僕は勉強よりも、部活や友達との学校生活はとても愉しかったので全く悔いてないです。

「テストの点数でその人の何がわかるのでしょうか。」

共通の問題で成績が決まる…
これは「結果が出た」と言うだけで良いも悪いも何とも思いません。が、そこから優劣が定まっていく事には違和感を覚えます。
点数次第で存在が区別されていく仕組みが社会に組み込まれているということです。

今は、何かあると「人生詰んだ」「人生オワタ」等の表現が見受けられますが、どんな出来事があっても、命がある限り、誰に何と言われようが、命に貢献しているんです。

僕はその後大学進学はしていません。
到底入れるなんて思っていなかったので受験もしていません。

地方公務員試験初級の採用試験を受験しましたが、全く分からずに不合格になりました。その流れで行ったのは専門学校です。
初めての一人暮らしをさせてもらいながら、そこに1年行かせてもらい、翌年の同じ試験に合格してその後28年の間、仕事を続けさせてもらいました。

仕事を振り返ってみて思うのは
「点数では測れないものの方が圧倒的に多い」です。

なぜそう思ったかは、
存在は、、、
『命の存在に在り、能力に非ず。物事は人の心が創り出している。』と、そう痛感したからです。

ひたすらにやったから今観えている世界がある。
自分の人生をそう歩んで来たら、進学とは違ったカタチで学生になって一時期大学にも通う事が出来ました。
そこでの学びもあったけど、残ったものは、全国から集まった年齢もバラバラな同期の仲間の存在と自分の体験です。

獲得して築いていく「そういうものだ」レールがあるのだとしたら、僕はレールからは外れているでしょう。
外れたけど詰んでもないし、オワタでもなく、新たな出会いや観え方の違う世界を歩んでいる、そんな感覚があります。
リタイアとして揶揄されるかもしれませんが、残念ながら当の本人は全くそのように感じていないのです。

ー 自分は自分のパイオニアです。ー

今思うのは、自分を信じて自分にしか出来ない表現を堂々としていく。
自分の命に適った生き方は自分にしか出来ないのだから「それをする。」誰かが出来ないのなら「自分がやる。」これを「革新的な諦め」だと思っています。

誰かが出来ることは、やりたかったらやればいいし、手伝ったらいい、そうじゃなければやらなくてもいい。
自分を生きて活きるとはそういうものなのだと思います。
それは、外側の基準には無いことだからなんです。
『答えは常に自分の中にしかない』、自分に在るんです。

今もまだまだ通過点、どこがゴールかなんて未知数。ここに在る自分を活きるのは生きている自分です。
僕自身が今まで「そういうものだ」として散々観ていた比較と成果の結果だけを見る視点、命のプロセスに込められた願いを無い事にする世界は、なんて浅はかな世界なのでしょうか。

冒頭で言った言葉を訂正します。
僕には、「点数をとる教養」がありません。
在るのは自分の体験です。

そうやって一人ひとりが自分を発揮することで、豊かでクリエイティブな人生が待っていると信じています。

自分一人の体験なんかちっぽけです。
だから、誰かの体験を共感し和かち合っていく。
自分も含めて誰かの体験は一人ひとりが替わりに担ってくれている結果なのだから、それは感謝なのだと思います。

自分が存在している時点で既に命を支えあっています。

誰かじゃない自分を進め。
恐れも、怖さも、弱さも、悲しみも在るものがあっていい。
ありのままにいこう。

それが自分になっていくことなのだから。

~ 自分を生きて活きよう。
  そして今日を生ききろう。 ~

あなたはあなたのパイオニアです。