文脈を無視した知識がもたらす「強さ」の幻想
ときどき、あなたは周囲にこんな人を見かけませんか? 文脈や相手の状況を考慮せず、自分の知識をひけらかすように話す人。彼らは一見すると「強い人」に見え、時に「マウントを取っている」と誤解されてしまうこともあります。
しかし、その「強さ」は実は幻想に過ぎません。
彼らの心の内には、本当は計り知れない心細さが隠されています。彼らが口にする「弱い人」とは、他ならぬ彼ら自身が向き合いたくない、認められない自分自身の姿なのです。
経験に基づかない知識の空虚さ
自らが「弱い」と自覚しているにもかかわらず、その「弱さ」を伴う具体的な経験のない知識は、周囲の心に響くどころか、かえって違和感を与えてしまいます。その結果、さらに心細さを募らせた彼らは、より多くの知識を貪るように吸収し、既存の知識をアップデートし続け、自分の居場所を必死に確保しようとします。
これは終わりのない繰り返しです。だからこそ、彼らの周りには情報が溢れ、それを外に発信せずにはいられなくなるのです。
過去の自分、そして「生きる術」
これは、他ならぬ私自身の過去の姿でもあります。
当時の私には、そうするしかありませんでした。それは、まさに「生きる術」となっていたからです。
本当は、自分の弱さをそのまま表に出したかった。弱いままでも、周りの人たちにそのまま受け入れて欲しかった。しかし、怖さや恐れを表に出すことを自分に禁じていたからこそ、不自然な方法を選ばざるを得なかったのだと思います。
負債ではなく、未来への動力源
ですが、私はそんな過去を「負債」だとは一切思っていません。
その経験があったからこそ、今の私には伝えたいことがあります。そして、その経験こそが、これから「どう生きていくか」という、私の「生きる礎(いしずえ)」を築くための原動力となっているのです。
私たちは、恐れを乗り越えて、どう生きるかを選ぶことができます。