決めつけるよりも、留まり、静かに眺めてみる。

相手の内面を知ろうともぜずに、「あの人はこういう人」というように決めつけてラベルやレッテルを貼っていく。

身の回りに溢れていませんか…「決めつけ」

かく言う僕も、散々人を決めつけてきたし、それだけでなく、更に自分の価値観や正義を周りに押し付けてきました。
相手の内面を知ろうともせずに、安易に決めつけることほど自分にとって簡単なことはないですよね。

そもそもですが、表面に見えるそんな簡単なデータで相手の何がわかるのでしょうか。

一つの情報だけを見て「◯◯に違いない」としたくなるのは、”感じていられない余裕のなさ”が要因のひとつにあるのだと思います。

もしかしたら、今の社会では、感じることを蔑ろにした方が生きやすいのかもしれません…

表層のコミュニケーションの数を増やし、行動や結果を追求して得る周りの反応の実感、それとなく繋がれている効力感で満たそうとしてしまう。
それって、わかりやすいし手っ取り早いですよね。

ただ、感じることを鈍化させてしまうというのは、既に在る豊かさや喜び、在ることへの感謝に気付かずに却ってより強い刺激を求めることになるのだと思います。

大切なことは、安易に決めつけるのではなく、そこに留まって静けさとともに自分を感じること。
感じようとするから深みに目を向けられる、自分にも相手にも内面に何があるのかを知ろうとすることが出来る。

それが共感の役割と可能性なのだと思います。