純なる想いは何処へ行ったのだろう

本来、私たち一人ひとりは、自分や誰か、あるいは何かのためを願い、自分にできることをしようとする存在なのだと思います。

それは決して、利己的で短絡的な所有や保有のためではありません。もっと内側の深いところから、何かに突き動かされる衝動にも似た、純粋な働きだと思うんです。

それなのに、そんな純なる想いは一体、何処へ行ってしまったのでしょうか。

いつの間にか社会の仕組みや競争に巻き込まれ、誰かを蹴落とし、陥れ、奪ってまで何かを得ようとする。そうして手に入れたものが、一体何になるというのだろう…と、時々切ない気持ちになります。

恐れの共同体化システム

世の中を見渡すと、一度始めてしまえば自動的に回りはじめて、始まれば止めようとしても止められなくなるような、見えないシステムが存在している気がします。

それは、お互いの不安や焦りをエネルギーにして動く「恐れの共同体化システム」とでも呼べるものかもしれません。

周りが走っているから自分も走らなければ置いていかれる。そんな恐れから、望まない競争に参加してしまうこともあるはずです。

でも、そうやって外側のシステムに流されるまま生きるのではなく、誰かではない自分の人生のハンドルを、もう一度自分の手に取り戻したいと思うのです。

過去に誰かと競わされたり、大切な想いを見失いそうになったりした経験が、これまでにあったかもしれません。だからこそ、その時に感じた違和感をただの痛みに終わらせず、本当に大切な生き方へと向かうための、今を生きる源動力にしていきたい。そう強く思うんです。

だって、誰かを傷つけてまで手に入れた席に座り続けたとしても、心からの満たされなんて得られないじゃないですか。

預かっている未来、これからの選択

昔から語り継がれている、こんな言葉があります。

全ての資源は子孫から預かっている。

私たちは、この地球にあるものや、目の前にある豊かな環境を、自分たちの代だけで使い潰していいわけではないんですよね。未来を生きる大切な子どもたちから、一時的に「預かっている」に過ぎない。この言葉の深き意味を、いま一度静かに考えてみる必要があるのではないでしょうか。

ここで少し、日々の暮らしを振り返って、自分の胸に問いかけてみてほしいのです。

自分が今日、何気なく選んだその行動や消費は、未来への「和かち合い」に繋がっているでしょうか。それとも、ただの個人的な所有欲を満たすためだけの選択でしょうか。

頭で決めた条件や、恐れから生まれるシステムに盲従して生きるのか、それとも、いのちの繋がりを感じて活きるのか。

日々の目の前の選択を今一度じっくりと眺め続け、本当に気持ちのいい選択を、少しの勇気と共に積み重ねていけたら佳いなと思うんです。