自分らしく生きる
“無我夢中”という言葉は、お子さんが何かに没頭している時の様に、周りからどう見られるかなんて全く気にせず、その時間は「それ」のみに生きている…そんな言葉だと思います。
一方で大人は無我夢中になれている瞬間はあるのかな…って考えてみると、常に周りの目や評価を気にして、あれやこれや考え続けて予測し、計画を練って、良く見られたいとか、怖さを回避する為にやらなければならない…に駆り立てられて…と、そんな時間は殆どないのかもしれませんよね。
無我夢中そのものを推奨する訳ではありませんが、”みっともない”とか”恥ずかしかろう”が、”嫌われるかもしれない”とか、それが自分ならそれでいいと思うんです。
だって、無我夢中で何かに没頭している人を見た時に、その人を恥ずかしいとかって思わないだろうし、寧ろ、羨ましいって思うんじゃないでしょうか。
趣味や好きな事に集中して没頭する感覚、互いに称賛し合ったら佳いと思うんです。
周りの目や評価が気になるかもしれないけど、自分が隠したい「怖さ」から誰かの無我夢中に批判的になる必要はないですよね。
それをするってことは、自分の好きも批判されることになるのですから…
つまり、周りの目が怖さに繋がっているから誰かを批判することで自分を保とうとする。
誰かに対して批判しているから、”自分の好き”も批判されないようにと、思う様に表現出来ずに縛りになってしまう。
結果、無我夢中からは離れて望まない現実になっているという構造が浮かんできます。
だから、怖さを回避するために何かに集中するよりも、”好きだから、やりたいからやる”を意識して、自分自身に無我夢中になれたら佳いのだと思います。その結果、自分も相手も受け容れられる幅が広がっていくのだと思います。