子どもたちは「我慢」を強いられている? 大人から始まる負の連鎖を断ち切るために
「うちの子、ずいぶん成長したな」「苦手だったことを克服したんだね」
お子さんのそんな姿を見て、わが子の成長を喜ぶ保護者の方は多いでしょう。しかし、その「成長」や「克服」は、もしかしたら子どもたちが周囲の環境に合わせようと、必死に「我慢」した結果なのかもしれません。
我慢は本当に「成長」なのか?
私たちは、子どもたちが段々と我慢を覚えていく姿を見て、「成長した」「大人になった」と捉えがちです。しかし、それは大人である私たちが「我慢することが美徳」「我慢こそが大人になること」と、無意識のうちに子どもに教えてしまっているからではないでしょうか?
「大切な願いを抑え込む=我慢」 「(不本意ながら)落としどころを見つける=妥協」 「波風を立てないように周りに合わせる=諦め」
もし、私たちが自身の人生において、このような「我慢」「妥協」「諦め」の姿ばかりを見せていたら、子どもたちはそこから希望を見出すことができるでしょうか?
「こうやって自分を抑えて我慢して生きていくことが成長であり、大人なんだ」と、私たちは知らず知らずのうちに、この生き方を正当化してしまってはいないでしょうか。
子どもたちは大人の姿を映す鏡
「うちの子は〇〇だから…」と、お子さんの行動や性格を決めつけるような言葉を耳にすることがあります。しかし、その言葉はそっくりそのまま、お子さんから「うちの親は〇〇だから…」と返ってきていると考えることはできないでしょうか。
子どもたちは、親や周囲の大人たちの姿を本当によく見ています。大人が自分自身を押し殺し、我慢し、妥協し、諦めている姿は、子どもたちにも確実に伝わっています。そして、その姿が、子どもたちが「自分らしく生きること」「自分の思いを表現すること」を躊躇させている可能性も十分にあります。
怒りとして感情をぶつけてくれるうちは、まだ健全な状態と言えるかもしれません。本当に心配なのは、その怒りすらも表現できなくなり、完全に自分を抑圧してしまうこと。そして、最終的には自分の「命」そのものを閉ざしてしまうことです。
新しい世界を共創するために
「親だから」「大人だから」「ちゃんとしなくちゃ」「強くならなきゃ」…
私たちは、このような世界観の中で生きることに限界を感じているのではないでしょうか。
子どもたちに本当に見せたいのは、大人が自分らしく生き生きと輝く姿です。一人ひとりが自分の思いを大切にし、それを分かち合い、共鳴し合える世界。我慢や妥協、諦めではなく、お互いを満たし、共に新しい価値を創造していく。そんな「共創」の道を、私たちは子どもたちに示していくべきではないでしょうか。
しかし、私たち自身が我慢を隠し持ったままでは、真の共創は難しいでしょう。まずは大人が、自分自身の「我慢」と向き合い、手放していくこと。それが、子どもたちがのびのびと自分らしく生きられる未来への第一歩となるはずです。
このブログ記事について、さらに深掘りしたいテーマはありますか? 例えば、具体的にどのように我慢を手放していくか、子どもたちの自己表現を促す方法など、ご興味があればお聞かせください。