”同じじゃない”ということが同じ。
自分にとって特別なことは、誰かにとっては普通かもしれないし、自分にとっての普通は、誰かにとっては特別だっていうこともあると思います。
日常の中で、誰かを羨ましく思ったり、自分がそう思われたり、自分が言った何気ない一言で相手が傷つくこともあるし、相手が言った何気ない言葉で自分が傷つくこともある。
“一人ひとり、大切にしているものが違う”
“一人ひとり、出来ることや観ている世界観も違う”
同じだと思っていることは同じではなく多様的だし、同じじゃないということが同じで一様的なんですよね。
そう思うと、”普通・特別”は共通のものではなく、人それぞれ中身が違っているのだから、無自覚に思っている前提を改める必要だと思います。
それは、共生・共存・共創していく為には「互いの想いを伝え合い、和かち合い”理解”をしていく必要があるんだ」ということです。
今、何故かこの当たり前が置き去りになっていて、それよりも手っ取り早く「自分の主張を通すこと」や「自分だけ良ければいい」と、自分の保身や保護に邁進し、その方法を確立して実行出来ることが、あたかも一様かのように象徴的にされていると感じます。
世界はそんなに簡単じゃなく多様で複雑なのだから、そもそもが「面倒」なのだと思います。
面倒なものや時間のかかるものは後回し、手っ取り早く機能的に手に入れるHowToが目立つ現代。改めて問うと、それを実行し続けていくとどんな未来が訪れるのか…
「環境負債」
「存在軽視」
「命のコスト化」
生き方そのものを「やり方から在り方」へ変化していかないと、結果的に自らが自らの未来を生き辛いものにしていくのだと思います。
これから先の未来をより佳いものにしていくには、繰り返しになりますが、どこまでも理解しようとすること、違うということに共感を向けて和かち合うことが必要なのだと思います。
少し前に流行った言葉で「意識改革」なんて言葉があったと思います。当時は積極的に周りへ向けてのものだったと思いますが、この言葉は自分自身へ向けて、自分に問う言葉だと思います。
面倒なことに本質はある。
そう思います。
自分を知ろうとすることは簡単ではありませんし、時に苦しみを伴います。
とても面倒なことですよね。
だけど、このプロセスがあるから、特別や普通という枠を超えた意識の向け方、自分や誰かにも多様で一様な個としての存在肯定をした共生・共存・共創の意識が向けられるのだと思います。