「難」は単なる難ではない:体験を分かち合うことで生まれる有り難い「ご縁」

私たちは、つい無難な道を選びがちです。しかし、無難が常に最善とは限りません。

「難はあったけど大丈夫だった」「勇気を出すことができた」「知恵を重ねて活路を見出すことができた」

こうした体験の積み重ねこそが、自分という人間を深く醸成していくのだと思います。

ただ、ここで一つ注意が必要です。自分の体験を、闇雲に相手や自分に押し付けていいわけではありません。「自分はこうして乗り越えたから、あなたもできるはずだ」と、安易に強制するのは違うでしょう。

難がないことを願う「想い」を受け取る優しさ

このとき、本当に大切なのは、「それでも難が起こらないことを願ってやまない想いが、自分の中に在るんだね」と、その繊細な願いを受け取ることだと思います。

「在るものが在るんだね」と、自分自身の素直な感情を受け取れることは、一つの気付きです。たとえすぐにその感情の正体に気付けなかったとしても、「そこにはどんな想いが在るんだろう」と知ろうとしていく姿勢。

これこそが、人としての優しさなのではないでしょうか。


誰かと共に成り立っている「今」

ひどく苦しい時、辛い時、悲しい時、難がある時。

誰かにそっと声をかけられたら、やはり、ほっとしたり、少しでも安心できるものです。一人だったら向き合えなかったかもしれない、越えられなかったかもしれない。

でも、今ここに自分がいるということは、誰が何と言おうと、直接だろうが間接的だろうが、これまで自分と共に誰かが居てくれたから成り立っているんですよね。

忘れてしまっているかもしれませんが、誰にでもその「誰か」が必ずいるんです。そして、自分もまた誰かのその誰かになっているんです。


分かち合いと信頼が「ご縁」を育む

自分の体験は誰かの体験ではなく自分の体験です。そして、誰かの体験は自分の体験ではない、個別のものです。

だからといって、「別々で無関係で無関心」となっていくのではなく、誰かと誰かがいてくれること、そして自分自身がいてくれること、その体験は分かち合えるんだと、存在を信頼し、共感することができたら。

その体験は、単なるではなくなり、有り難い「ご縁」になるのだと思います。

ここに意識を向けることができたなら、新たな気付きも起こるでしょうし、その根底には感謝の感覚が伴うようになっていくのではないでしょうか。


皆様へ

存在してくれていること、共有してくれること、分かち合ってくれること。

感謝の気持ちと共に、ご縁を、有り難うございます。