暴力

暴力には、殴る蹴る等の直接的な暴力と、それ以外の分かりづらい暴力があります。
また、暴力のための強制的な暴力もあります。

圧倒的暴力である戦争には、兵が必要です。
人が兵士になるためには、同じ命を賜った人という存在であるにも関わらず、社会から人に暴力が行使され、人からも暴力が行使され、名前ではなく隊の中の兵士という枠の中に組み込まれていく。
そこで、暴力の前の暴力が常に振りかざされ麻痺に誘われます。

その暴力を受けた兵士が、敵とされる存在がいるところへわざわざ出向いて行って暴力を行使する。
守る方も防衛のための暴力を用いて戦い、互いに負けられないから敵と呼ばれる存在と戦い、双方の尊い命が失われていく。

また、暴力は、敵と言われる存在に向けなくても、味方と呼ばれる劣位な兵や人へも行使される。

ところで…
命は突然生まれませんよね。

親の存在、親の親もそう、それまで関わってくれた人の存在、支えてくれた存在、多くの繋がりがあって今に至っています。
その命が、お互いに奪い合う状況におかれる。
このことを美化したり、正統化し、神格化してはいけないと思うんです。
教育や学びに対しても”暴力…”
これ以外の言葉が思い浮かびません。

戦争は、全てが暴力です。
戦争への踏み台も、全て暴力が介在しているのだと思います。

暴力はどこまでも続く連鎖です。
また、暴力の道へ進みやすくすることにも暴力が存在しています。

なぜここまで根深く暴力が存在するのか…

それは、生存への恐れを抑え込もうとしたところから始まっているのだと思います。

だって、人が戦う理由はただ一つです…
怖いからです。

怖さを怖いと言えない状況そのものが暴力なんです。
辛い状況を辛いと言えないことも暴力です。

「普通そういうことは思っても言わないよね…」これが暴力なんです。
(暴力と聞いて想像する暴力と違いますか?)

暴力を肯定する思想も暴力なんです。

生存への恐れが生むものは、シナナイように生きようとすること。
そのためには他者の命を否定することもしてしまう…

他者の命を奪うことは犯罪です。
明確な暴力です。
そうならないように幼き頃から教育によって培っていってますよね。

じゃあ、戦争は?
命を奪うことが犯罪ではなく功績になるのはなぜですか?
人の命を奪うこと、ターゲットを破壊する作戦を成功させて英雄が生まれてしまう…
起こるはずだった争いを起こらなくする方がよっぽど偉大な英雄だと私は思います。

やっていることと、やろうとしている大義名分や合法化は何の為ですか?
学びとのギャップはどう埋めるのですか?

大人と呼ばれる人達は、一体何を学んでいるのですか?

未来の子孫に伝えるとしたら…
私は説明ができません。
どう考えても正統化以外の何でもないと思うんです。

戦争に勝っても負けてもPTSDに苦しむ兵士…私達は、兵として命を奪うように出来ていないからではないでしょうか…

始めれば始まるんです。
そして簡単には止まらないばかりか、子孫にまで憎しみが引き継がれていく…

一体何の為に生まれ生きてきたのか…
と、止まない問いが鳴り続ける。

…

一方で、人権という言葉があります。
憲法で自動的に適用されている権利ですよね。
ただ、自動適用されているからといって、未来永劫に効力があるのかと言うと、解釈の余地が含まれていると思います。

それは、「…不断の努力によって」という文言です。

この言葉は、完璧でなければならない訳でも、何かを突きつけているものでもなく、「一人ひとりが内省し、学び続けていこうとする姿勢が重要なのだ…」と、説いている…
私はそう思います。

今、何か直接的に自分に振りかかること以外へは、無関心であり、何でもかんでも合理的で要領よく、効率的で、苦労なく…が良いこととして推奨されているように感じます。

あまりにも端的。
可能性へのプロセスを除外した最短ルートでのゴール到達が、タスク的、Doing的ではないかと思います。

稀に聞く言葉があります…
「学校で学ぶことは社会に出たら役に立たない」です。

果たして本当にそうでしょうか…
もし、本当にそうだとひたら、
役に立たない…ではなく、役に立てようとしていないだけではないでしょうか。

学びは何のために必要なのでしょうか?

学びなき実践は、却って暴力を生む発端に寄与する可能性があると思います。

日本には、働くことを「傍を楽にする」という解釈があります。
そう仮定したときに、「果たして自分は、傍を楽に出来ているのだろうか…」、もしかしたら、楽にするのではなく、「行く先の未来、子孫を苦しめることをしていないか…」と、自らを問うてみる。
簡単に答えの出ないことを問い続ける…
ここに、総じて学びが活きるのだと思います。