堂々と、自分という命を肯定する

「多様性」という言葉が、近頃はどこか記号のように一人歩きしている気がします。でも、本当に大切なのはその言葉自体ではなく、この世界がそもそも多様な存在で成り立っているという事実に、ただ静かに気づくことだと思うんです。

世界の地図を書き続ける

目の前にあるものが、ただそこに「在る」と理解すること。 誰かに何かを強制したり、枠の中に押し込めて制限したりするのではなく、自分の中にたくさんの物差しを持てるようになること。

そうすることで、多様性と一様性は対立するものではなく、互いを包み込むような優しい関係になれます。 それが「違うという同じが在る」という、新しい世界の地図になります。

以前の自分は、周りと違うことに不安を感じたり、正解を一つに絞ろうとして窮屈な思いをしてきました。 だからこそ、今はその違いを排除するのではなく、背景にある豊かさに目を向けられるようになったのだと思うんです。


「希」を和かち合うということ

自分の中に「希(ねがい)」があるように、相手の中にも同じように希があります。 それは社会を変えるような大きなものである必要はありません。たとえ指先ほどの小さなものであっても、希は希です。

私たちはつい、誰かと意見が食い違ったときに「落とし所」を探してしまいがちです。 でも、これからは妥協や我慢で帳尻を合わせるのではなく、もっと微細な部分まで含めて、互いの希を「和かち合って」いきたいと思うんです。

だって、誰かの正解に合わせるのではなく、互いの共感と理解が重なる瞬間こそが、これから先を創っていく原動力になるじゃないですか。

目に見えない循環を信じる

私たちはどうしても目に見える成果や確実さばかりを追い求めてしまいます。 沈むことはないと言われていた大船も、水面下の氷山に当たり、自らが目に見えないものとなりました。

行く先だって、目に見えている部分はごく一部に過ぎません。 自分の体だって、中身は見えないけれど、ちゃんと存在して絶え間なく循環しています。

見えなくとも確実にあるものを観ようとし、大切にすることが、自分だけの道標になります。 「いき方」は、この世界に無数に在るのだと思うんです。


誰かではない自分を生きる

自分という存在を生きているのは、他の誰かではなく自分自身です。 周りからの刺激によって心が激しく揺さぶられることは多々あります。 でも、それも含めて、堂々と生きていいのだと思うんです。

周りの物差しで自分を裁くのではなく、自分が自分を一番に肯定していく。 ありのままの自分を生きて、そして自分の命を活かしていく。

その姿勢こそが、自分自身の人生を誰かではない自分のものにしてくれます。

今、自分の内側にある小さな希を、どれくらい大切に掬い上げられているでしょうか。 自分という唯一無二の存在を、今日、どれだけ堂々と肯定できているでしょうか。