生きていること

何かを鍛えると考えたとき、私たちはどうしても「無理をして強い負荷をかけること」を想像してしまいがちです。必死に痛みに耐えたり、自分を追い込んだりして、何かを成し遂げようとすることだけが成長だと思うこともあります。

でも、本当はそうではないのかもしれないと思うんです。

肉体的なことに限らず、精神的なことや心のことなど、いろいろな意味を含めて、私たちは日々生きているだけで十分に鍛えられているのではないでしょうか。特別な負荷をわざわざ自分にかけにいかなくても、日常の些細な出来事や、日々の営みそのものが、自分という存在を形づくるトレーニングになっているのだと思います。

何者かになろうとする違和感

現代を生きていると、どこか「今の自分ではない何者か」にならなければいけないような焦りを感じることがあります。社会的な肩書きや、分かりやすい目標達成ばかりが注目されるからかもしれません。

けれど、人生の本当の目的は、明確な目標を達成することそのものではなく、純粋に「自分になれているかどうか」にあるのではないかと感じています。

だって、何者かになるために無理な負荷をかけ、いのちの時間を削ってまで何かを得ようとしたとして、その先にはきっと大きな違和感が待っていると思うんですよね。

目標を追いかけるあまり、自分の内なる声を無視して進んでしまうと、せっかく成果を手に入れたとしても、どこか虚しさが残ってしまうのではないでしょうか。

誰かではない自分の人生を生きる

過去の望まない出来事や、思い通りにいかなかった葛藤の時間が、これまでに何度もあったかもしれません。だからこそ、そうした日々のすべての瞬間が、誰かではない自分自身になるための大切なプロセスとして、今を生きる力強い源動力になっているのだと思うのです。

外側の世界が求める基準に合わせて自分を変形させる必要は、どこにもありません。

私たちは、何か特別な存在になろうとしなくていい。ただ、日々を懸命に生きることで、すでに自分になるための鍛錬を重ねているのだと思います。

ここで少し、自分の胸に問いかけてみてほしいのです。

自分が今目指している場所は、本当に自分が進みたい方向でしょうか。それとも、誰かに認められるための「何者か」になろうとしているだけでしょうか。

他人のモノサシで測る結果を手放し、自分の内側にある感覚を大切にすること。その実感を周りの人と深く和かち合いながら、一歩ずつ進んでいけたらいいなと思います。