私たちを縛る「イメージ」

世の中には、大小さまざまだけど誰の心の中にも確実に存在する「イメージ」というものがあります。もちろん、私自身もそれをしっかりと持っています。

「普通はこうだよね」「あの立場ならこうするべきだ」

そういった無意識のイメージに直面したとき、大切なのは、それをそのまま相手に押し通そうとするのか、それとも「これは自分の中の無意識の偏見なんだな」という理解を向けようとするのか、という点です。その心のあり方ひとつで、自分の中のイメージが優しく緩んでいくのか、それとも頑なさをさらに拡大していくのかという大きな違いが生まれます。

ちょっと立ち止まって考えてみてほしいのです。いざ自分が何かの立場になったとき、周りから向けられる意識は、一体どんな意識がいいでしょうか。

「そういうものだ」という不一致の苦しみ

何かに規定されているものを、あたかも「そういうものだ」と周りから決めつけられて持ってこられたとき、自分自身の本当の想いとの不一致が起こり、それが深い苦しみを生み出します。

すると、生きづらさという影を孕んだ社会が、「そういうものだ」を標準モデルとした構造として、どんどん生成されていくのではないかと思うんです。

人によっては、生まれながらに大多数とは違う状況に置かれている人もいます。でもそれって、裏を返せば「大多数が普通である」という一般的なイメージが、そもそも既に誰かの頭の中で生まれてしまっているということですよね。

過去の望まない出来事や、周囲の決めつけによって息苦しさを感じた経験が、これまでにあったかもしれません。だからこそ、その時に感じた違和感をただの痛みのままで終わらせず、社会の当たり前を疑うための、今を生きる源動力に変えていきたいと思うのです。

既成の規格に無理やり自分を当てはめる必要なんて、どこにもありません。

違いが標準であるという視点

もしも、一人ひとりが全く違うということこそが「標準」なんだ、というイメージを持って世界を観てみたらどうでしょうか。

人は誰しも、自分がつくりあげたイメージの意識の中で生きているものだと思います。でも、その先で本当に求めているものは、誰もが、いつ、どんな状態になったとしても「安心して生きていけるんだ」という確かな安心感だと思うんです。

だって、明日の自分がどんな状況になっているかなんて、誰にも分からないじゃないですか。

この安心感に寄与し、お互いに共創していくこと。それこそが、人と人の間を、人として生きるということなのかもしれません。

ここで少し、自分の胸に問いかけてみてほしいのです。

自分が今、誰かに対して「普通はこうでしょ」と思っているそのイメージは、本当にその人のありのままの姿を観ているでしょうか。

「そんな訳ないじゃん」と反発したくなるときは、「じゃあ、今持っているイメージの範囲が崩れてしまったら、自分はどうなってしまいそうか」ということをイメージしてみてください。その恐れの正体を見つめてみたとき、目に見えない新しい景色が、きっと内側から観えてくると思うんです。

誰かではない自分自身の心を少しずつ緩めながら、そんな温かい実感を周りの人と和かち合っていけたら心地いいですよね。