ルールを守ることの奥にあるもの
「ルールを守っているから主張できる」 「違反にならなければ、何をしてもいい」
世の中を見渡すと、そんな空気を引き裂くような声を耳にすることがあります。確かに、身勝手に枠組みから逸脱して周りに迷惑をかけるよりは、ルールを遵守している方がいいのかもしれません。
でも、その姿を少し引いた視点から眺めてみると、どこか正統化された、静かな抑圧のようなものを感じてしまうんです。
表面的には正論を語り、規則に従っているように見えても、本当は胸の内に、腹の奥に、誰にも言えない別の想いが隠されているのではないでしょうか。
自己提示よりも、目に見えない充実を
ルールを盾にして自分の正しさを主張することは、一種の自己提示に過ぎないのかもしれないと思うんです。そうやって外側に向けたポーズで自分を飾るよりも、もっと大切にしたい領域があります。
それは、目には見えないところで「心が満たされを感じること」、そして「精神が充実すること」、心の底から「喜びの感覚を感じられること」。
こうしたアクティブな主観的な行いを自らの手で満たしていくことこそが、結果として周りの人も共に満たしていく循環を生み出すのではないでしょうか。
誰かに認められるための主張を繰り返すよりも、自らの内側を歓びで満たしていく。その方が、生き方としてずっと気持ちがいい気がするのです。
過去に理不尽なルールに縛られたり、正論に押しつぶされそうになったりした経験が、自分の中にもあったかもしれません。だからこそ、表面的な正しさに逃げ込むのではなく、自分の内なる実感を羅針盤にして進むことが、今を生きる源動力になるのだと思うのです。
増え続けるルールと、本当に目指したい場所
もし私たちがこのまま外側の規範ばかりを基準にしていったら、一体どうなるでしょうか。
きっと、お互いを監視し合うためのルールは増えていく一方だと思うんです。だって、人間の行動をすべて縛ろうとしたら、いくら法律や規則を作っても足りないじゃないですか。
しかも、そのルールの決め方や運用のされ方によっては、本来味方であるはずの人間同士の間に「争い」という名の悲しい成果を生産してしまうことすらあると思います。
ここで少し、日々の歩みを立ち止まって、自分自身に問いかけてみてほしいのです。
自分が今守ろうとしているものは、本当に大切な誰かではない自分自身の心の平和でしょうか。それとも、単に怒られないための免罪符でしょうか。
規則でガチガチに固められた世界よりも、お互いの目に見えない心の充実に目を向け、その温かさを自然と「和かち合い」ながら生きていける。そんな寛容な世界を、まずは自分自身の内側から始めていきたいと思うんです。

