欠けたドーナツ

「何で私のドーナツは欠けているの?」

目の前に差し出されたドーナツを見たとき、パッとその欠けている部分にばかり目がついてしまうことってありますよね。もっと綺麗な丸だったらよかったのに、どうしてここだけ足りないんだろうって、無い部分ばかりを追いかけてしまう。

でも、欠けていたとしても、それは紛れもなく一つのドーナツなんですよね。

私たちはどうしても、他人が決めた綺麗な正円の規格と自分を比べて、何か欠けているところばかりに目を向けてしまいがちです。けれど、もしも元々そのカタチが自分のデフォルトなのだとしたら、どうでしょうか。

欠けているように見えるその輪郭の内側には、確かに「今そこに在るもの」が存在しています。

在るものには目がいかず、ただ「欠けている」と思い込んでしまう。既成の認知や世間の規格から外れているというだけで、無自覚に自分を否定してしまう。そんな意識のあり方から、少しだけ違う視点にシフトしてみてはどうかな、と思うんです。

表面からは見えない、内側の豊かさ

「何で私のドーナツにはチョコがかかっていないの?」 「何で私のドーナツにはクリームが入っていないの?」

これも、まったく同じことかもしれません。外側の華やかなデコレーションや、分かりやすい成果ばかりを求めて、他人と自分を比較しては落ち込んでしまう。

でも、中身というのは、知ろうとしないと分からないものだと思うんです。

観ようとしないと観えないもの、聴こうとしないと聴けないことって、この世界にはたくさん溢れています。目に見える表面的な部分だけで、「自分には何もない」とか「あの人は完璧だ」なんて簡単に決めてしまうのは、お互いにとってもったいないと思うんですよね。

だって、じっくり時間をかけて味わってみないと、その人の本当の魅力なんて分からないじゃないですか。

誰かではない自分の人生を豊かにしていくためには、目に見える記号や数字に惑わされず、その奥にある本質に触れようとする眼差しが大切なのだと思います。

スピードを落として、存在を和かち合う

今の世の中は、どうしても効率やスピードばかりが重視されがちです。

相手のことも、自分のことも、ゆっくり理解していく時間がない。そんなときこそ、コミュニケーションのスピードを少しだけ落として、お互いを理解しようとする姿勢が必要なのではないでしょうか。急いで答えを出そうとすると、たくさんのエラーが起きてしまいます。そして、そのエラーを無視したまま無理に進めようとするから、余計に不都合なことや生きづらさが生まれてしまう…そんな気がするんです。

昔、こんな言葉がありました。 「狭い日本、そんなに急いでどこへいく」

私たちは一体、何に追われて、どこへ向かってそんなに急いでいるのでしょう。

過去の望まない出来事や、他人のモノサシに振り回されて心がすり減ってしまった経験が、きっと誰しもあるはずです。だからこそ、その立ち止まった経験を今を生きる源動力に変えて、これからはお互いの存在をそのまま肯定し、理解し合っていきませんか。

ここで少し、自分の胸に問いかけてみてほしいのです。

自分が今、必死に埋めようとしているその「欠け」は、本当に埋めなければならないものなのでしょうか。

お互いの凸凹をそのままに、ゆっくりと息を合わせていくこと。そこから、お互いを満たす新しいアイデアや、共に歩むための佳い道が生まれていくのだと思うんです。そんな温かい実感を周りの人と和かち合いながら、一歩ずつ進んでいけたら心地いいですよね。